早稲田大学の歴史を開校から現在までを解説!大隈重信はどういう人だったのか?
全国的に有名な早稲田大学。
全国的に有名な早稲田大学。その歴史は非常に古く、1882年にスタートし、140年以上にわたり日本の私立大学における最高峰の大学として君臨し続けています。
この記事では早稲田大学の歴史にスポットを当て、歴史の始まりから現在に至るまでの歴史を振り返るとともに、創始者である大隈重信についてもご紹介します。
早稲田大学の歴史概要
まずは早稲田大学の歴史を振り返っていきます。
1882年東京専門学校を創立
早稲田大学の歴史は1882年に開設された東京専門学校から始まります。この時設置されたのは、政治経済学科と法律学科、理学科で、学部ではありませんでした。しかし、理学科は人が集まらずに募集停止となり、当面は政治経済学科と法学科で生徒募集が行われていました。
1890年文学科が誕生
東京専門学校が誕生してから8年後の1890年、文学科が誕生します。坪内逍遥が講師を務め、坪内逍遥が展開するシェイクスピア講義は大きな話題を集めるとともに、文学科といえば早稲田というイメージにもつながります。
あの夏目漱石が東京専門学校で英語を教えるなど、個性が強い講師がアグレッシブに教育に取り組んでいたこともあり、早稲田の文学のイメージが一気に根付くことになります。
1904年~商科・理工科が誕生
企業で即戦力として働けるよう、大学でも教育をしてほしいという産業界の希望が根強いですが、日清戦争を契機に1900年代にもそのような風潮が高まります。1904年には商科が登場し、実業を学ぶ大切さを説いています。
1907年には理工科が新設され、その後、複数の理工系学科が誕生します。日本には産業革命が起こり、戦争も相まって重工業の必要性が叫ばれた時代。その時代に必要とされる人材を送り込むため、発展を続けていました。
1943年農学部の新設が協議
太平洋戦争の時期になると、若者たちは戦地に行かざるを得ず、私立大学も危機的な状況を迎えており、新しい学部を設置することが一般的になりつつありました。
早稲田大学では農学部を設置しようと計画が立てられ、次年度に設置するところまで話が進みます。ただ急ピッチで準備をして立ち行かなくなったこともあり、農学部の認可申請をせず、結局話は立ち消えになります。
ただ敗戦直前の時期に農学部新設に向けた動きはみられており、準備さえ整っていれば今日に至るまで農学部は存在していたかもしれません。
1949年4年制の大学として認可
太平洋戦争で日本は敗れるとともに、早稲田は東京大空襲の影響で結構な数の校舎を失います。すぐに講義こそ再開されますが、GHQ主導で展開される改革の影響で、これまで早稲田を取り巻いていた環境は激変。複数の種類があった学校をすべて統合、再編することになり、新たな大学が誕生します。
1949年、新制大学として早稲田大学が誕生。早稲田大学が今まで守ってきた伝統などに加え、戦後教育の考え方を導入することになります。この時、教育学部の新設、夜間学部の設置など新しい時代を迎えようとしながらも、これまでの早稲田イズムを踏襲する動きも見られました。
1972年川口大三郎事件が起きる
1970年前後は学生運動が盛んであるとともに、それに乗じた過激派の存在が問題視された時代です。早稲田も例外ではなく、1972年当時文学部の学生だった川口大三郎氏が過激派によって集団暴行を加えられ亡くなるという事件が起きてしまいます。
過激派の中にもいくつかのグループに分かれ、川口氏はそれぞれのグループに参加し、それぞれで失望した矢先の出来事でした。この事件はあまりにも衝撃的だったため、村上春樹氏の「海辺のカフカ」など複数の作家が川口大三郎じけんを扱った作品を発表しています。
2004年国際教養学部が新設
2004年になると国際教養学部が新設されます。1994年に早稲田の国際化を目指して「グローバル・ユニバーシティ」が提唱され、その後、現在のように英語で単位が取れるような大学院が新設される中での学部の新設でした。
のちに早稲田大学は「早稲田からWASEDAへ」というスローガンを打ち出し、国際化の方向性を強めていきます。2032年までに日本人学生全員が何かしらで海外へ留学し、1万人の留学生を受け入れていくという目標を定めました。
2015年キャロライン・ケネディ駐日米国大使来日特別講演
暗殺されたジョン・F・ケネディの娘であるキャロライン・ケネディ駐日米国大使が2015年に来日し、早稲田大学の大隈記念講堂で特別公演が開催されました。大隈記念講堂では1962年に父の弟であるロバート・ケネディ司法長官が講演を行っています。
それから50年以上の時を経て叔父が講演を行った場所を訪れたキャロライン・ケネディ氏。またこの時はクリントン元大統領も22年ぶりに早稲田大学を訪れるなど、歴史的な1日となりました。
早稲田大学の創設者大隈重信はどういう人物?
早稲田大学の創設者である大隈重信とはどのような人物なのか、ご紹介していきます。
少年時代:若いころから現実主義
大隈重信は1838年に佐賀藩で生まれました。佐賀藩の近くに長崎があった関係で、当時から欧米の技術に触れてきた一方、保守的な教育も行われており、当時の大隈重信は疑問を覚えます。
無駄な努力は嫌いで、合理的な考えを持っており、のちに藩校で大隈重信は大げんか。この責任を取らされた大隈重信は洋学を学び、異なる学びを若いうちから受けることになります。
幕末時代:英語が堪能で大活躍
洋学を学んだ大隈重信は長崎に派遣されると英語を学び、西洋の近代思想を学習します。これにより、大隈重信は英語が達者となり、佐賀藩の英語学校でその才能を開花させました。
この時、大隈重信は坂本龍馬やグラバーなどと会って交易を展開。巧みな話術と交易のスキルにより、佐賀藩は大儲け。その財政を活用して軍備を強化すると、戊辰戦争で勝利に貢献し、佐賀藩は明治新政府の重要なポジションを担うことになります。
明治時代:日本初の政党内閣をつくる
大隈重信自身も明治新政府では重要なポジションに就き、英語を使って堂々と海外の公使と対峙。鉄道などのちに日本を支える改革に挑み続ける一方、あまりにも改革を打ち出し続けたことで仲間から煙たがられ、政府を去り、政党を立ち上げます。
自由民権運動が始まると、議会制民主主義導入を強く主張し、1898年、日本初の政党内閣が誕生することになりました。
大正時代:高い支持率で総理就任
大正時代には既に大ベテランの扱いを受けた大隈重信は、そのキャリアの長さも相まって民衆からの支持を得るようになります。大正デモクラシーの動きが強まり、議会制民主主義の定着などを目指した大隈重信。
当時76歳にして総理大臣となると、海外にもしっかりと対峙するなど国民ウケのする総理として注目されます。1922年、83歳でこの世を去りますが、国民葬が日比谷公園で行われると30万人が詰めかけるなどその人気の高さを感じさせます。
早稲田大学の歴史を知るには「早稲田大学歴史館」がおすすめ
ここまでの早稲田の歴史は、「早稲田大学歴史館」でより詳しく知ることができます。早稲田大学歴史館は2018年に早稲田キャンパスに誕生しました。
早稲田大学歴史館は東京メトロ早稲田駅から徒歩5分のところにある早稲田キャンパス1号館の1階にあります。
様々な切り口からの展示が人気
早稲田大学歴史館は単に資料の展示をしているだけでなく、デジタル媒体を活用した展示内容や企画展を展開。その切り口は一面的なものではなく多面的に行われることで、早稲田の歴史をより立体的に知ることができます。
大隈重信の生涯から国際化への挑戦、早稲田の政治、経済、スポーツなど様々な歴史を学べます。
まとめ
早稲田の歴史は非常に深く、大隈重信が大切にしてきたイズムは現在の学生たちにも受け継がれています。国際化の流れは激しいですが、大隈重信が経験した国際化の流れはより激しく、より生々しいものだったと言えます。
早稲田の激動の歴史は、多くの人の努力や犠牲などで形作られており、これからの歴史の積み重ねにも注目です。
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